短歌
本音というのは諸刃の剣
叫べども
届かぬ声は
こだまして
身に降りかかり
身の丈を知る
これは、抽象的で、読み取りにくい。
実は自分自身もよくわからないで書いた
本音というのは時に相手に届かない。
むしろ、帳尻を合わせたような「かわいい嘘」の方が場を納めるにはよい。嘘も方便というやつである。
本音であるからこそ、自らをさらけ出した言葉であるにせよ、その誠実さが相手に通じるかと言えばそれは別の話になるという事。価値観が違うから。
だから、本音は相手に伝わらず、あるいは、受け入れられることはなく、虚しくこだまし、身に降りかかるのだ。
そして、この流れを持って身の丈を知る。自身に対する信用や、相手方の出方や、考えを加味した非情な現実である。
正直、漠然とした形でこの短歌を書いた。具体的にどうなのか、こうなのか、と言うと、短歌自信が抽象的にある上に、自分自身の思いも定かに決めかねた状態であったため、よくわからないままの感覚だけで書いたのがこの短歌だ。
しかし、自身の思いという面で言えば、自画自賛だが、よく書けたと思っている。
結論
結論をつけてお仕舞いにしてしまいたいが、なかなか難しい。
この短歌の要点は、相手方がいるというのが前提であるから。
さて、一体誰を相手方とするか?
自分の中には複数の人間が思い当たるが、それを書いてしまうのは無粋だし、短歌の形にした意味もなくなってしまう。
結局は自己満か。
身に余る気持ちの吐露。
その媒体が短歌。
社会問題だとか、季節とか、そういったものだと容易だが、テーマの相手が人間となると難しくなる。
昇華。
短歌は自身の感情や感覚など、それを表現するための一種のフォーマットである。
だから、これで気持ちを完全に昇華できれば良いのだが。