配信者は常に孤独である。
配信を始めたとき、配信者は常にリスナーを待つことしか出来ない。
よって、来場が少ない、コメントが少ないとなると配信に対するモチベーションは下がる。
一方でリスナーは、自由に配信者を選ぶことが出来る。
リスナーは、配信がつまらないと感じれば、配信者からの反応がつまらなく感じれば、いつでも他の配信に移動することが出来る。
配信者とリスナーの立場の差、これが孤独たるゆえんである。
配信者側としても、常にリスナーに寄り添い、リスナーの要求に応え、リスナーの求めに応じる事が出来れば、当然この限りではないが、事実上、こういった万全の体制は無理である。
自身のやりたい配信が出来ない状況となれば、ただただ惰性の配信や義務感配信となってしまう。
もちろん、リスナーの言いなりとなる種別の配信もあるが、それはそれで配信者にとって有益かどうかは怪しい。それに満足する向きもあるにはあるだろうが。
では、どうやって孤独を埋めるかということに目を向けねばならなくなる。
前述の通りのやり方もあるが、限度がある。
また、一般論としてだが、配信者には配信者で配信に費やすことの出来る時間には限りがある。
問題はここにある。限られた時間で配信者としての孤独を埋めるのは難しい。
使うことの出来る時間が無限にあれば別だが。
しかし、何ら心配することはない。
無限の時間は必要もなく、万全の体制を整える必要もない。
結局のところ、配信は水物であるからだ。
ダメなときは何をやってもだめで、うまく行くときは何をやってもうまく。
こういった、いわゆる流れとも呼ぶべき傾向があるからだ。
あくまで私の私見だが、配信の回数と配信のタイトルが配信者を孤独から救ってくれると感じている。
断言することは出来ないが、フォロワーの数も関係ない。時間帯も関係ない。
どういったタイプのリスナーが来場するかにかかっている、と私は思っている。
それ故、配信というのは水物であると考えるのである。
結局、試行錯誤の回数が孤独を埋めるものと信じている。
もちろん、多数のフォロワーを抱える配信者にあっては、この記事は当然意味のないものであろう…