認知という悪夢

ニコ生雑感

好きな配信者から認知されたいという話が出た。

どの程度の話かというと、ギフトを投げた瞬間とか一時的なものでは足りないのだという。

当然理解できなくはない。

片思い的なものと考えればすんなり入ってくるが、問題は相手が画面の中の人ということだ。

手が届きそうで届かないというもどかしさも認知されたいという想いに影響しているかもしれない。

このとき思ったのは、「同等の配信者になる」というのがいちばん現実的じゃないかということ。

配信でも同じ事をそのまま伝えた記憶があるが、件のリスナーがどんなふうに返してきたかは忘れてしまった。しかし前向きな返事があった記憶は無い。

飛躍した考えであるのは承知の上だが、これほどに現実的な話はないと思う。

そもそも人は配信について難しく考えすぎている。

配信のやり方は多種多様だし、自分の得意な分野をいくらでも選べる。

最初は人が来なかったり、荒らし・煽りなどを経験すれば配信に苦痛を感じるかもしれない。

だが考えてほしい。

配信をしている方が人目につきやすいし、自分がどのような人間かをアピールしやすい。

水面下で認知される可能性もある。

単にリスナーを脱却するだけで認知のされやすさが数十倍とか数百倍に跳ね上がるかもしれないと考えるとどうだろう。

「認知という悪夢」から目覚めてみませんか?

参考

承認をめぐる病 斎藤環 (著) – 2013/12/23

内容
他人に認められないと、自分が愛せない!気鋭の精神科医が世相と精神医学を架橋する。

斎藤 環
1961年岩手県生まれ。筑波大学医学研究科博士課程卒業。医学博士。

承認をめぐる病 斎藤環 – Amazon

この記事の元になった配信のメモ

私たちはシンデレラであって、憧れの配信者とはどう頑張ってもニコ生なら最大6時間しか会うことが出来ない。

魔法が解けることなどいとわないというかもしれないが、魔法が解けてしまえばすべての前提が壊れてしまうのである。

そのとき目の当たりにすることになる現実に、耐えられるだろうか?

ちなみに上記は記事の最後の部分。

自分が見ても抽象的でわかりにくい文章だが、結局は配信者もリスナーも配信という魔法の元でほどほどに楽しむのが幸せなのでは?という趣旨。

線引きが出来れば悪夢にうなされることもない。

だからこそ、それ以上を望むには少しの試行錯誤に目を向けなければならないと思うのです。

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